牛人間の祭

   時間と空間の操作によっていろんな場所の古い文化をディスクにデータ化し保存したところ、各データの中で時間が進んでしまった。保存された文化はほかの文化との交わりや淘汰なしに、閉ざされた空間で独自の進化を遂げていた。あるデータの中ではミノタウロスのような牛人間が生まれていた。つまり体が人間、頭が牛なのだが、頭部にはさらに首だけ人間も寄生している。一体何がどう進化したのかはわからない。私はそんな牛人間がいるデータの中の世界へやってきた。


   牛人間たちは互いに閉じ込めあっているのか誰かに閉じ込められたのか、ずらりと通りに並ぶ小屋の中に一体一体入っていた。私がそこを歩いてゆくと、小屋の鉄格子から寄生しているもしくはされている首だけ人間がにゅっと伸びてこちらを目で追うのだった。そのデータ上の地はロシアとラオスが合体したような雰囲気の場所で、牛人間達はそこの宗教の祭に参加しては奉仕しお金を集めていた。


   私は他のデータの中の世界へも訪れた。壁だけになった世界もあり、縦に街がひろがっていた。また別のデータでは、頭が霧状に広がっている子どもが「ね、これが死っていうんだ」と言っていた。私はそんないくつかの世界で何日かずつ滞在していたようだ。それは旅行のようでもあり、なつかしい暮らしのようでもあった。

20111030日の夢]


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寄生虫や深海魚などはしばしば奇妙な進化の一例として関心を集めるが、生命の進化というのは本当にグロテスクなものだなとよく感じる。

生命は原核生物からあらゆるフィールドに展開し地球を埋め尽くしたわけだけれど、自分では交尾をやめられないカイコガや、胎内できょうだいと繁殖する虫(忘れた)、自分では体温を保てない小型犬、目をなくした魚、そういう生き物も私たちの一つの可能性なのかみたいな事を思ってしみじみしてしまう。

村上龍の『五分後の世界』に出てくる「退化」した人類は、目がなく腕が縮み地下で這って過ごし、延々セックスしているというものだったが、それも生命の市場開拓といえばそうなので、そういう生き物が気持ち悪いのではなくて生物がそもそも全部気持ち悪い。