幼生ガシャポン

表現や思想の奴隷たちが暮らす施設の様なところにいた。そこでフクロウと山猫を殺す羽目になったり、既製品を否定して作られた作品がすごいからこの中から真似して作ってください他のは既成だからだめ!と強制されたりしていた。逃げようとするのだけど逃げられなくて諦めたそんな人たちで街ができていた。またそこには生き物の胎児や幼生が出てくるガシャポンがあった。ガシャポンの中では親が卵を温めていたり生まれたてを舐めたりしているが誰かがレバーを回すと子供が穴から落とされる。
[2011年5月11日の夢]


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昨夜は会社の飲み会で、誰かが撮る写真に変なポーズで写ることに夢中になった。後から1人と、私の行動についての話が噛み合わず言い合いになった。
私がだれそれの挨拶をしている最中にもふざけていた、というたわいのない内容だ。私はそれを否定して、どうでもいいやと思った。でも次の瞬間、自分でもどちらが正しいかわからないということに気がついた。たった30分前のことなのに、その時挨拶していた人の話した内容はしっかり覚えているのに、ふざけて遊んでいたかどうかはさっぱりわからなかった。
脳神経科医オリバー・サックスは著書『妻を帽子とまちがえた男』 で、人は記憶をつないで歴史や過去という「物語」を作り生き、そこからアイデンティティが生じるといったことを語っている。同書では記憶が数秒ともたない男が出てくるが、サックスは彼のことをバラバラの存在だと言った。連続した記憶がないため、固有の自己をつなぐことができないというのだ。ピエール・ワゼムのバンドデシネ『 KOMA―魂睡』に、自分が誰かわからなくなり数秒ごとに違う人間に変身してしまう描写があったが、まさにそのようなイメージだ。
私が「自分」であるために作り上げている物語、内面のドラマっていうのは一体どのように編集されているんだろう。ついさっきまでの自分の行動さえわからない、そんな頼りない"記憶"でしっかりした自己をつなぐことができるんだろうか。そんなことを考えてなんだか心細い気分になった。


舌が4枚あるサルバドール・ダリを殺した

サルバドール・ダリを殺した。直接手を下したわけではないけれど思ったら殺せた。舌が4枚あって真ん中から裂けていた。何かのせいで苦しんでいて、楽になりたいかと聞いた。舌のせいか返事はなかったが死ねるようにした。死んだら頭部だけになった。
その後、生垣や池の周りで全く同じ姿形をした2つの意思を持たない人形のような存在に追いかけられた。
[2010年11月15日の夢]

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今日の昼は、昨夜ネパール料理店で包んでもらったダルとチキンティッカとチーズボールを会社のレンジであたため、上海文化広場の花壇の淵に座って食べた。桃の花が眩しいくらいに満開で、それを目当てに人が次々やって来た。蟻も沢山いて、やはり春なんだなと思った。
春になると同じ場所でもそれまでと全く違って見えるから不思議だ。日本にいた時から、春先に外を歩いているとよく「自分は死んだんじゃないか。気づいてなかっただけで生きていないのではないか」という不安に襲われる。あんまり光が急にまして、辺りがのどかな柔らかい印象に変わるから、現実味のない作りもののように見えるのだ。しかしもしそれが死ぬ間際の夢かなにかだとして、それと気づいた瞬間に無になるのかなと思うとちょっと怖いなあ。