ともに生きる

線状に広がる世界の番人だが、ふだんは鹿・やぎ・羊を連れ人を引き車で運ぶことを生業にする男がおり、その日も人を運んでいたがとつぜん気が狂い、俺はやっぱり運ぶのをやめる、勝手に行けばいい、何も信じたくなくなった、鹿とやぎと羊とともに生きると言って何もない道で引き車を止め、鹿とやぎと羊を連れて近くの小屋に立てこもった。

私は乗客だったのだが面白そうなので覗きに行ったところ、小屋に引き込まれ閉じ込められてしまった。中には鹿とやぎと羊を交配させてつくった角が大きな醜い獣がいて、柵なようなものがあるがよく見ると囲われているのは私の方で、こちら側は自分の体の幅ほどしかなく柵の隙間から醜い獣に角を打ち付けられ放題なのだった。ハンマーを打ちおろすような強さで角が脚を叩き続けた。脚がちぎれるかと思うような痛みだった。じっさいにちぎれるまで続くんだろうと、痛みに悶えながら思った。

私は小窓を破って逃げ出した。獣も小窓からはい出そうとする。私は落ちていた板を使って必死にふさいだ。獣の力が強いので困難だった。助けを求めて叫んだ。それを聞いた近くの人がやってきた。しかし目の前まできたところで獣を見て顔を歪ませ、生き物をこのように人間の欲望のために作り変えるとは何事だ、と吐き捨て去ってしまった。例の番人もそうだそうだと言って後へついていった。たくさんの人が私を取り囲み笑った。

2011105日の夢]


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進化の本を読んでいると、「そんな生き方もあるのか」としみじみすることが多い。

たとえばゴキブリの腸で生活している寄生虫なんか、どうしてもちょっと気持ち悪いと思ってしまうが、私たちと同じ進化の結果生まれた生物なのである。DNAをもち、細胞分裂をするのだ。

何を言いたいかというと、生物はそれぞれの種が隙間を埋めるように適応範囲を広げたり、攻撃や防衛の機能を高めたりといった進化を繰り返しているのであり、これからもきっとそれは続いていく。人間はそんな生物たちの一つの可能性であり、ゴキブリの寄生虫もそんな一つの可能性である。(カタツムリをゾンビ化する寄生虫でもいいが)

人間自体もそういった進化の果てに生まれた生物であり、人間の体の中の細胞や微生物もまたそうだ。当たり前のことだが、人間とかけ離れた姿形の生き物について考えるとき、どうしてもそのことを強く意識してしまいなんだか落ち着かない。

可能性といえば、もし胚から生殖できる(技術的・倫理的に)世界があったら、その胚に人権が与えられて「私のお母さん、胚なんだ」という状況もあるんだよなという話を考えていたことがあります。